2016年10月16日 礼拝メッセージ
ラザロよ出てきなさい ヨハネ11:30~44
人生の中で想像もしないことを神様はなさいます。
神のことばは、不信仰揺り動かし
霊を揺さぶります。
祈ります。
今日、みなさんが一人ひとりに聖霊様触れてください。
心の内側の奧の届きますように。
人生は霊的解釈にかかっています。
霊的礼拝をします。
今日は、ラザロは死からよみがえったという、神様の驚くべきしるしについて御言葉を伝えます。
ラザロはマルタと云うお姉さんで、ラザロと喜びの分かち合う生活をしていました。時にマリヤはイエスさまに香油を塗り、自分の髪の毛でイエスさまの足をぬぐった女性です。ラザロが病気になると、マリヤとマルタはすぐにイエスさまだけが、この病気を癒せる唯一のお方だと。それ程、イエスさまを慕っていました。
11章1~5節をまず見てみたいと思います。
1、さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタと村の出で、ベタ二ヤの人であった。
2、このマリヤは、主に香油を塗り、神の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロ病んでいたのである。
3、そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4、イエスはこれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためです。
5、イエスはマリヤとマルタとその兄弟とラザロとを愛しておえられた。
ここで4節に注目しましょう。
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためです。」
このように、イエスさまは言われました。
この御言葉は何か、目的と云うか、この出来事は何か深い意味が込められているように思います。
ところが、イエスさまはすぐにラザロの家に行きません。
11、イエスはこのように話され、それから弟子たちに言われた。「私たちの友ラザロは眠っています。しかし、私は眠りからさましに行くのです。
12、そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かでしょう。
イエスさまは、ラザロの家に向かいます。
なかなか来てくれないので、姉妹はもうどうしてよいか分からないそういう心境にあったと思います。
マルタは言います。
21、マルタはイエスに向かって言った。『主よ。もし』ここにいてくださったなら、私の兄弟は死なかったでしょうに。
23、イエスは彼女に言われた。あなたの兄弟はよみがえります。
25節は重要なことばです。
イエスは言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。
イエスさまはラザロの家に着きました。
32、マリヤは、イエスのおられるところに来て、お目にかかると、その足元にひれ伏して言った。「主よ。もしここにいて下さるのなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
そして、周りの人々も泣いていました。するとイエスさまは「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じた。
33、そこでイエスは、彼女が泣き、彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
ここで、「憤りを覚え、心の動揺を感じて、」
ここでの訳文は、「霊において憤慨し、激昂するした。」非常に強い言葉が使われています。
そして、イエスさまは涙を流されたと書かれています。
「憤りと、彼らに対する悲しみに対して、深く憐れみを感じたのです。」
39、イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よもう臭くなっておりましょう。4日になります。」
40、イエスは彼女に言われた。「もし、信じるなら、あなたの神は栄光を見る。と私が言ったのではありませんか。」
その石を取り除けなさい。
そして。
ラザロよ。出て来なさい!
大きな声で。
威厳に満ちた声で,
ラザロよ出て来なさい!
44、すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで巻かれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らされなさい。
ラザロはどういう姿で墓から出てきたのでしょうか。
歩いていましたか。
日本足で歩いて来たのでしょうか。
ラザロは体中、布切れで巻かれていたのです。
身動きが出来ない状態でした。
御言葉をそのまま読みますと、ぴょんぴょんと出てきました。
愛するみなさん
あなたの心は、全身布切れで巻かれている状態ですか。
あなたの心は何かに巻かれていますか。
愛するみなさん
ここで沢山の大事なことが語られ
ています。
大切なことは聞くことです。
聖霊さまが言うことばを聞くことです。
神様がそうせよと言わなければ、何事も出来ません。
しかし、あれをしよう。これをしよう。と動き回ってしまうことが、私たちにはあります。
神さまの「ことば」は「ロゴス」です。
神さまの「ことば」は「真理」です。
神さまの「ことば」は「いのちです」
御言葉は「ことば」、世は「言葉」です。
そういう見分けかたをしましょう。
人間は知識を持っています。
その知識は、神様の力によって動き出します。
「力は神さまだけが持っているのです。」
「この力を受けないと、御言葉を悟る理解力は出てきません。
使徒の働き1:18
18、聖霊があなたがたに臨む時、あなた型が力を受けます。
という御言葉です。
ここで力と書かれています。
この力は、ギリシャ語で、「デュナミス」と云うことばが使われています。
ダイナマイトの語源です。
爆発的な力です。
聖霊さまに導かれた人を「霊的な人」と例えるなら、御言葉を読むと、神さまの深い憐れみが聞こえてきます。
御言葉の奥義が現れて来ます。
神さまの真理、知恵と口で語るのですが、誰もがそうでしょうか。
聖霊さまの力を受け取って、真理、知恵で語る者になります。
御言葉の泉が湧き上がって来ます。
そういう体験をしたいと思います。
人間が生み出した。言葉は、知識は、何か自分の情況が変わると、すぐに変わってしまう愚かな行為をしてしまうのです。そして、それに気が付かないのです。
人生は解釈にかかっています。
霊的解釈にかかっています。
霊的礼拝にかかっています。
肉が消えて真理の霊を聞くこと、見ることが出来ます。
聖霊さまの世界です。
肉が消えて、真理がやって来ます。
神さまの「ことば」は意味深いです。
宇宙万物を創造された神さまのことばは、無限です。
絶対者に従順することは、「無限を生きる」のです。
いのちを動かす信仰者にされましょう。
いのちは聖霊さまのご臨在の中にいます。
臨在を選ぶ人になっていきたいです。
アーメンですか。
ですから、霊的礼拝をしたいのです。
霊と真を尽くして、神さまを賛美します。
いのちが動き出します。
いのちが胎動を始めます。
私は11月3日からアルゼンチンに行ってきます。
私のこれからの人生を歩く力と方向をもっとはっきり自分のものにしたいからです。また、私自身が「聖別」されたいのです。私は小さな人間ですが、アルゼンチンで長い間、リバイバルは消えることなく、聖霊さま、すごい勢いを持って動いています。その力を私はほしいのです。大きな力をほしいのです。教会のために、多くの失われた人々に、アバ父、イエス様、聖霊さまが満ち溢れている国に行くことを願っています。世界のリバイバルを見ますよ、カナダのトロント・ブレッシング。ペンサコーラのリバイバルと影響を受けて、大きな炎が燃えています。
私は、アズサ通りのリバイバルを学びました。現代に目を上げると「ザ・コール」と云う、祈りと断食の中で主を求める運動が起きて、同時に、リバイバルが起きていることのニュースを聞いています。日本でも、さまざまな霊的働きが動いています。聖霊派の中に胎動している運動に目が開かれています。
ラザロがよみがえったとことは、神さまの計画でありました。
11:4
4、イエスは聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。
二人にとっては、緊急を要することですが、イエスさまはこのように答えたのです。
神さまは時々、このようなことをなさいます。
すぐに癒してください。と訴えてもすぐに答えが来ない。
そこには、神さまの計画があることを知ることが出来ます。
イエスさまは、ラザロが病にかかっていりことを知っていました。
神さまが、愛する者に起こる病気や大きな問題を通して、ご自身の栄光を現わされる方法は、私たち人間の知恵をもってしても、とても測り知れことが出来ません。
神さまは時として、その問題の解決を遅らせることがあります。
イエスさまが解決を遅らせたので、ラザロの家庭の問題は悪化しただけではなく、ラザロは死んでしまい、二人の姉妹は絶望に追い込まれました。
何で主よ、私をいじめるのですか!
何で主よ、私の願いを聞いて下さらないのですか!
しかし、人間の目には絶望と見えても、イエスさまには不可能なことはありません。
イエスさまは、人間の要求で動くのではなく、神様の栄光時を待って動かれます。
イエスさまがラザロの死を待たれたのは、弟子たちの信仰を強いものにするためでありました。しかし、弟子たちは理解出来ません。
神さまは、私たちの信仰が強くなるために、問題を遅らせる時があることを知る必要があります。
問題の山で、呼吸も苦しくなる時が人生にはあります。
信仰が本当に問われます。
何で、こんな人生なのだろう。
自分はこんな努力しているのに、
世の人々は嘆きますが、みなさんはどうでしょうか。
聖書は、イエス・キリストを信じる旅人、寄留者だと語ります。
Ⅰペテロ2:11
11、愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい。
へブル11:13
13、これらの人々はみな、信仰の人々として死にましたが、約束のものは手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白したのです。
ピリピ3:20
20、私たちの国籍は天にある。
旅人は故郷を恋慕いながら、その使命のために旅をする人のことです。
古い人の故郷はこの世です。
新しい人の故郷は天国です。
この世は旅人として訪れたところです。
問題だらけでも、神さまに計画があることを信じる人は、この世に執着しません。神様の価値観で生きようと思います。
神さまの価値観で生きることこそが人生だと悟ります。
神さまの栄光を現すために、私の全てを捧げる人になるのです。
生きた聖なる供えものとして自分を捧げます。
使命は、聖霊さまの御声を聞き、聖霊さまの臨在の中で力を得、果たしていくものです。
この出来事を記したのはヨハネです。ヨハネはこの記事を記した理由は、「ラザロが死に、絶望のただ中にいた二人の姉妹が、完全にもうだめだと思った時、お兄さんはもう帰らないと完全に思った時、まさか、生き返るなど思いの外ですから、そんなことがあるはずもないと、真面目に思ったのです。」
これが普通です。
しかし、ヨハネはそうではないと語ります。
□ 人間は自分の限界を超え、絶望した時、神さまの栄光が現されることを語りたかったのです。
愛する兄弟姉妹
イエスさまが、私たちの問題を解決される究極的な目的は、その問題を解決することによって、みなさんの信仰を成長されることを覚えてください。
信仰は頭ではありません。脳で判断をすることは、聖書的ではなりません。
御言葉を聞いて、頭を通過して、心=たましいに下さります。お腹です。
悪霊は、たとえクリスチャンをつぶすことに専念しているのです。頭の理解で留まるように誘導されて、御言葉の深さにはいろうとする者を阻止するのです。
頭で理解すること、知識は大変に重要な部分です。知識がないとものごとの判断が歪曲されます。しかし、クリスチャンはその先にある知恵を求めます。
そして、そこには聖霊さまの臨在があります。
臨在がないと、霊的な悟りが迫ってきません。
みなさんが必要なのは、霊的知識、霊的知恵、霊的悟りです。これがそろうと聖霊様の臨在に気が付きます。
「聖霊さまは、現代にはない。使徒の働きで終わった」と言う教会があります。そのような教会はリバイバルが分かりません。聖霊さまの実在がわかりません。悲しいことです。
実は、私がそうだったからです。
私は関東学院神学部の時代。「イエスはキリスト」と「イエスとキリスト」とい論争がありました。「イエスとキリストとは、「イエスさまは、救い主ではない。イエスとキリストを離して理解するのだということです。私は、そこにはまってしまったのです。そして、愚かな人生を歩みました。
一方、「イエスはキリスト」とは、まさにイエスさまはキリストです。私はここから離れてしまったのです。神学生の時代、教会を批判し非難しました。私はどしてそのような愚かをしてしまったのでしょうか。小学1年の時、木村先生のなりたいと思った素朴さが、かつてあんなに熱心に主とお会いし、喜びに包まれていたのに、堕落しました。神学校へ行くことをただ追い求めていたのに、将来の希望は牧師になることと、誰にも話していたのに、、、、悪魔悪霊どもに完全に縛られていたのです。恰好の掘り出し物だったのでしょうか。苦しかったです。
私はそういうところを通されました。そして、聖書が何だか分からなくなりました。そして、私がそこから回復、解放されるために、大きな貴重な時間を要したのです。しかし、神様は憐れみ深いお方です。私のような者を、1回つまずいた者を、再び、牧師に復帰できる光栄に預かったのです。人間とは一旦間違えると、解放されるには長い試練の時間が必要になると思います。私は、10年かかりました。10年経って、まともになりました。夢中で本を読んで、本を読んで、自分がどこにいるのか、どこへ行くのか、を必死に捜しました。そして再び、教会にたどり着いた時、懐かしい教会、私が求め願った教会に迎え入れられました。私の恩師に電話しました。先生、私をもう一度先生の教会へ行ってもいいですかと言いました。先生は泣いて、泣いて、いつでも来なさい。待っているよと。私は先生から叱られると思っていたのにそうではなかったのです。心の安息がやって来ました。心の平安を覚えました。私にとりましては、この10年という期間は貴重でした。多くの方々の悩みや、心の苦しんでいる方々の心を聞くこと。何が正しいのかを、自分が歩んだので、人の心に接しやすくなったと思います。神さまは、無駄な人生をさせません。私のような者も愛をこめて祝福してくださるお方です。良く帰って来た。それは先生だけではなく、教会のみなさんも泣いて迎えて下さったのです。さあ、今日はお祭りだと言われて、お赤飯を用意して下さってのです。私は、教会へ行くことが怖かったのです。正直に、まじめにそう持っていましたから、神さまは、誰も隔てなく愛して下さるお方であると私はどうどうと言えます。
みなさんが必要なのは「霊的知恵、霊的悟り、霊的祝福」です。
御言葉の真理を獲得する。これ以上の幸いはありません。
心が開く霊的世界です。
□ 道端の落ちた種は、鳥が来て食べてしまいました。
考えが複雑な人です。
実を結びません。悪魔が来て食べてしまいます
□ 石の上に落ちた種は御言葉を聞くと、すぐに受け入れますが、自分に根がないために、困難や迫害が起こるとすぐに落ちてしまいます。
自分の知識が勝っているからです。
自分の方があの人より良いのだ、悪いのは、あなただ。
自分がかたくなな人です。
知識があって自己主張が大きい人です。
自我が強くて、常に相手を批判します。
アーメンと答えますが、困難が来ると落ちてしまう。
この内面を私たちは持っています。
□ いばらの中に落ちた種は、いばらが伸びてふさがれてします。
心配、悩み、心に受けた傷、は早く取り除かなけれなければいけません。
それが、自分の人格になってしまい、心は重くなるばかりです。
□ 良い土の種は、御言葉を聞いて悟る人です。
30倍、60倍、100倍の実を結びます。
御言葉が心の地の奧に植わります。
霊が受け止めます。
あなたはどこにいますか。
愛する兄弟姉妹
ラザロは死んだのです。しかし、神さまの計画があったのです。
その計画は前もって分かりません。
分からないから、主を求めるのです。
飢え渇いて、主を求めるのです。
ラザロはよみがえりました。
ハレルヤ
あなたは今日から、よみがえり、新しい人になります。
祈ります。
愛する父なる神様、今日もあなたを覚えて礼拝の参列出来たことを、心から感謝いたします。私の種はどこに落ちたのか。私は良い土に落ちました。しかし、困難が来ると、だめになります。私の人生は無駄ではないことをイエス・キリストの御名によって宣言します。私は主の道を歩みことを、御言葉の羅針盤で歩みます。私も長い回り道を通って来ましたが、神さまが私をその道のあえて通して、牧師としての必要な事柄を教えて下さいました。私たちはみなそうです。イエスさまの命にまで到達するのに時間がかかりました。それは主の御心でした。あなたはあらゆる者をご存知です。その人が回復されるのは、あえて私の歩みを遅らせることがあることを知りました。全ては主の計画の中に納められています。主よ感謝します。アバ父、お父様、子なる神イエスさま、そしえ聖霊さま、三位一体の神に誉め歌を捧げます。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン